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ちゃーりーの「どっからでもかかってきなさい」

ジャイアンだとしても、映画版です

流れ、常識、すきま、そして

研究をしていると、流れ、というものがあることが何となく分かる。これはもちろん研究にかぎった話ではなくて、ひとの営みにある種の流れがある、というのは、間違いないと思う。超極論すれば、そういう流れを全く意識することなくそれまでなかったことを生み出せるひとは、天才なのかもしれない。

 

その天才の定義(のひとつ)に関連して、新しい流れを生み出そうとする、というのは、言うは易しの典型だと思う。なぜなら、それが新しいかどうかを判定するために、それ以前の流れをきっちり考察しなければならないからだ。逆説的だが、これをやってものごとを考えていくと、自然と、既存の流れのちょっとした延長とか、小さな支流的な流れをつくることになってしまう。すきまを探す感覚になってしまうのだろうか。おそろしいのは、ひとたび支流にはいっていくと、あたかもそれが本流であるような錯覚に陥ることがある、ということだ。非常識を考えるときのベースはいつも常識だ。それと同じ構造だと思う。

 

はたして、どういうつもりでもなく支流にいたらば、いきなり決壊してどでかい本流ができるようなケースがあるだろう。僕の尊敬する先輩の論文に使われていた言葉でもある、セレンディピティ、というやつだ。しかしそのセレンディピティも、発生確率は、おおもとの本流がうまれてから時がたてばたつほど、その大きさが減少していくはずだ、ということも感覚的に想像できる。

 

加えて、流れ、が、頭のなかで、常識、とか、良し悪し、に変換されると、どんどん思考の自由度は失われていく。そういうことにふと気がつくと、あれ、自分は何をやっとるんだ、と、オイオイオイオイ、という状態になってしまったりする。

 

そして、と書いたが、こういうことを考えていくと、そんなに深く考えなくても、自分が何をしたいのか、何をすべきなのか、ということが見えてくる。何か本性が複雑だ(笑)。安全でいてチャレンジしたい、って、そんなムシの良い話があるわけはない。