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ちゃーりーの「どっからでもかかってきなさい」

ジャイアンだとしても、映画版です

フィロソフィ

研究

みたいなことをボスと話した。プロジェクトの話をすると、どうしても、少なからずジャーナルの話になる。どこのジャーナルに出せるかな、ということ。で、まあ、どのくらい、ジャーナルそのものの格が大事になるのかね、という話になるわけだ。結局、ジャーナルの格自体は大事ではなくて、良いサイエンスをしているかが大事になる、という当たり前の結論に至る。問題?は、良いサイエンスと思えるものが必ずしも良いジャーナルに出ず、悪いとさえ思えるものが良いジャーナルに出ることがあることなのだが、ピアレビューというシステム、また、ジャーナルの商業誌的側面を考えれば、いまのシステムより総合的にみてうまくいきそうなシステムはなかなか現れない気がする。人間のすることなので、おかしなことが起こるのはもはや前提だと思う。

 

果たして、良いサイエンス、というものはどのようにして測られるのだろう。いまのところ持ちうる、最も定量的な気がする指標はやはり、当該論文の被引用回数ではなかろうか。これは、フィールドの母数にも左右されるので、分野間比較みたいなものは難しい(フィールドの母数とサイエンスとしての大事さにはそれなりの相関がある気はするが)。で、まあ、definitiveな方法はないよね、っていう結論に至るわけだ、結局。そりゃそうだ。

 

そして、話は、そもそもそんなこと(格高ジャーナルに出すとか)気にしてもしょうがないんだよね、という方向にいく。最強のエゴでもって、別にショーモナイ、ってひとに言われても(特に短期的に)、いやいや、これは面白いんだよ、と、突っ込んでやっていくような気概でなければ、後まで残る大発見はできないのだ。ひとがどう言おうが関係あるか、ひとに認められるためにやっているのか、違うだろ、オラオラ!Cellに出そうがNatureに出そうがScienceに出そうが、それが時の洗礼に耐えうる大発見でなくば、50年後にたった数報のお前の論文知っているヤツなんていないよ、それがNatureかどうかなんて気にもされないよ、なのにNatureに出したい!とお前の脳みそを使うのか、違うでしょ、と。

 

こんな話の前提に、そんなことを気にしていて大発見に至るサイエンスができるのか、というのもある。さらに、ここで言う良いサイエンスは、時の洗礼を受けて末永く愛されるサイエンスのことであり、その結果をサイエンティストたちはみることすらできないかもしれない。だからこそ、いつか書いたけど、just following your nose、自分のセンスと能力を信じて、自分の思う方向に、我が道をゆけ、(ただしクオリティは心配しろ)、さもなくば、死ぬ時に後悔するぞ、っとまあ、そんな感じなのかな。

 

まあ、こういうのも、きれいごと感なきにしもあらずで、やはり、職を探すためには、一定以上の格をもつジャーナルに出すのが有利、というのは周知の事実(いや実は、ほんとに面白いサイエンスをやっていれば気にする必要はなさそうなのだけれど、選ぶほうにとってより選びやすいのは間違いなかろう)。というかこれは全く別の問題なのだ。僕はまだほんものの(?)サイエンティストとしてのスタートラインに立っていないと思うので(ちと極端だけれど)、スタートラインに立つためにどうすべきか、という感じに思考しているが、それが成り、ラボが軌道にのったとき、この会話を思い出すのだろうなあ。

 

以上を要するに、僕はいまははっきりと、そういうジャーナルに載るような研究をしたい、と思っている。やっぱり、これはまたしょうもない意地で、いっぺん出してから、ジャーナルなんてよお〜、って言うのと、出したことないのにNature狙うとか意味ないでしょ、っていうのはちょっと違うと思うし。また、出してみないと分からない景色は当然あるだろう。何事も体験してみねば分からないのだ。同時に、自分がサイエンスをしている芯というのは、他者に評価されたい、というところにはない(はずだ)。なので、基本的には、というか深いところでは、上に書いたような心持ちで研究を楽しもう、そんなふうに思った。

 

(ちなみに、なんだかんだ、ああいういわゆるオシャレジャーナルは、ほんとうにground-breakingな論文はそれなりに取りこぼしていない、とも感じる)