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ちゃーりーの「どっからでもかかってきなさい」

ジャイアンだとしても、映画版です

ローテーション、アメリカの大学院システム

日曜日。午前に、ローテーション希望の学生と話した。90分もしゃべってしまった。僕はしゃべりだすと止まらない。

 

アメリカでは、ラボを決める前に、ローテーションといって、結構本格的な仮配属を経験することが殆どだ。ボスはサラリーを負担することになるため、ローテーションとして受け入れる前の段階から、ガチの評価をされることになる。それだけに、院生候補も必死で実験する(しなければラボに入れないし、博士号もとれない)。ちなみに、院生候補となるには、ある程度のラボ経験が求められるようである。多くの学生が、テクニシャンやアシスタントとして本格的にプロジェクトに関わった経験があり、論文をもっているような学生もいる。サラリーを出している以上、配属になったとしても、ダメなら追い出され、もちろん博士号は取れない(これだけシビアに見えるプロセスを経て採用しても、一定の割合でダメ院生はいるのだ)。このシビアな関係は、院生に一人前の自覚をもたせるためにはとても良いと思うし、このことが、院生の総数をおさえ、PIがきちんと院生と関われるような数比を維持することに一役買っている。いまのところ、このシステムの大きなマイナスポイントは見つからない。大学院のいわゆるクラスも少人数である傾向があり、授業内容も、「グラントの書き方」など、全員が一人前のPIとして生きていくことを前提にしているものが多く、この「当たり前」も院生のマインドセットの確立に貢献している。

 

はたして日本のシステムは、もう少しお気楽だ。お気楽なんだから、もっと自由でいろんな研究が出てもよさそうなものだが、意外とそうでもないのが不思議だった。僕は大学学部のときは歌ばっかり歌っていて、音大に入り直そうかと思っていたくらいなので、授業なんか全然出ていなかった。自分でお金を出していたら出ていたと思う。お母さんごめんなさい。学部4年のときに、自分は研究者になろうと思っていたのだった、ということを思い出して少し真面目になったが、それでもアマアマだった。修士にあがる際にのちのPh.D supervisorと出会い、また、同期が社会で活躍しだしたのをみて、これではいかん、と思い直した。自分はひとりの社会人として研究をするのだ、と決意した。実家を出て一人暮らしをはじめ、スネはかじり続けていたが、多少なりとも自分でもお金を調達し、一生懸命研究した。当時は、そういうことをしない院生たちに怒りさえ覚えていたが、今にして思えばインフラ的にしょうがないことだったのかもしれない。

 

だからといって僕は、日本の大学院システム<アメリカの大学院システム、とは結論したくない(したくない、という書き方がいちばん正直だ)。ひとつには、僕は日本のシステムで育ったが、日本のシステムの良いところをじゅうぶんに使って、世界どこに出しても恥ずかしくないPh.D(1年生)になったと思っている。お気楽がゆえに、全く新しいことにゼロからトライする、ということが可能だった。同規模のアメリカのラボ(の多く)では、いろんな意味であれはムリだったろう。ふたつには、合理的すぎるシステムは多様性を低下させる可能性がある。日本のシステムは、原理的には、多様性を維持するのには向いていると思う。僕の知るいくつかの昆虫マニアックな面白い研究室は、アメリカでは存在しえない気がするし。ところが結果として、ground-breakingな研究の数がそうでもなくて、ふたをあけてみるとより保守性が高いのは(なんという中途半端!)、インフラ以前の別の問題、まあ、人材の問題なんだろう。みっつめは、ラボがお金を払わないので、常に一定の割合で新戦力をとれることだ。もちろんいろんな要因に左右されるが、アメリカのPIに言わせれば、「タダならダメでも文句言わないかも」とのことで、天国に思えるかもしれない。でもタダほど高いものはないわけで、ラボの雰囲気を崩壊させるほどダメでも追い出せないんですよ、というリスクがある。

 

合理的すぎるシステムは多様性を低下させる可能性がある、と書いたが、前に書いた通り、アメリカではこの多様性を維持するシステムもある。そのひとつが、「変えるのが当たり前」というところにも起因する人材の流動性である。アメリカに存在するたくさんの可能なステップ、選択肢も、人材の流動性を高めている理由だと思う(e.g. 良いinstitutionが多い)。新しい組み合わせが次の一歩を生み出している、というケースが多いのではないかと思う。

 

人間容易に飽きるもんであるからして、流動性っていうのはほんとうに大事である。僕は、日本の大学院システムをアメリカ式にするのはそうとう難しいし、やるにしたって時間がかかる、と思う。それと比較して、人材の流動性はもう少し容易に高められるように思う。例えば、日本学術振興会の、特にPDの規定に、「何を変えるのか」という項目を作るとかすれば良いんではなかろうか。別に生き物を変えて同じテーマに取り組むのでも良いと思うし。少なくとも、その距離をどうにかポイント化する。変えることによってbenefit(この場合3年の研究費/研究寿命?)を得られるし、バクチをうてるようにする、ということだ。少なくとも、「分野を変えるひと専用」という前提のお金が少しばかりあっても良いと思う。加えて、草の根活動として、僕はどんどん変えていくことを勧めまくるし、勧められてきた。そういう積み重ねが大事だと思う。こういう動きのなかでも絶対自分はこれをやるんだ、と言って続けられるひとは、一握りのスーパーハードコアスペシャリストになれる可能性があるだろう。(僕は自分が変えるのが好きなのでそれが素晴らしいことだと思っているが、そうでないひとは世界中どこにでもいる)

 

"The most important thing in science is not so much obtain new facts as to discover new ways of thinking about them"---Bragg, Sir William

 

世界を変えてきたような研究はすべからく、後世に新しい考え方を与えてきたものだろう。これはやはり、多くの世界を知ることで、多くのつながりを持つことで、よりうまれやすくなるものだと思う。