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ちゃーりーの「どっからでもかかってきなさい」

ジャイアンだとしても、映画版です

当たり前は雰囲気がつくる

雑感
ふと気がついたのだけれど、結局、僕が経験したことのある日本とアメリカのサイエンスの違いは、もしかすると(もしかしなくても)、単純なメンタリティの違い、というところに落とし込めるのかもしれない。スポーツとかと構造は同じ。◯◯◯が当たり前、というメンタリティは多くの場合「雰囲気」や「歴史」がつくる。

◯◯◯に例えば予選突破が入るのか、金メダルが入るのか。例えば柔道だのフィギュアスケートなんかは、メダル当たり前、っていうのが入るのだろうし、身体能力の違いすぎる陸上なんかは入賞、が入るのかな。

サイエンスの場合、例えば、Ph.Dとるのに三大誌が当たり前、っていうのは日本ではそうじゃないと思うし、いわんやノーベル賞をや。っていうか、独立してsingle PIのラボを運営することさえ当たり前ではない。この小さな当たり前の積み重ねが、時によって大きな違いを生み出すのだろう(例えばサイエンスのインフラ)。これはぶっちゃけ、国民性とかでもない気がする。アメリカでPh.Dをとるひとの上のほうは国民性問わず皆こんな感じに見えるからだ。とにかく「雰囲気」。

僕はいまだに、ちょっとした達成で、よし、こんなもんかな、とか思ってしまう(ときがある)。やたらと「計算」する性格も影響しているかな。セッティングがこじんまりと、安全策でありがちなのだ。この点は、アメリカに来てから日に日に変わってきているところでもある。僕のなかにいろいろな「当たり前」が真の意味で浸透するまでにはもう少し時間がかかりそうだけれど、少しずつ(謙遜ではなく)分かってきた気がする。

いつか、日本のサイエンスの◯◯◯にノーベル賞とかが入ってくる時代がくるかもしれない(分かり易いので引き合いに出しているけど、ノーベル賞を信奉しているわけではないですよお)。その「雰囲気」を作り出すためには(日本のサイエンスシーンを変えるためには)、ここの「当たり前」が芯まで浸透したひとが各institutionに一定の割合以上でいる、そんな状況をつくりだすことが近道なのかもしれない。

追記。
ある意味おそろしいな、と思うのは、日本のサイエンスの「当たり前」なんて、日本を離れるまで気がつきさえしなかったのに、それが僕のサイエンスにおけるメンタリティにものすごく大きく影響していた、ということである。ある種の刷り込みプロセスなんだろうな。こういう無意識下での刷り込みってどういう仕組みで起こるんだろうか。